

「嵐が丘」のムーアを訪ねる

英国文学の名作「嵐が丘」。その物語の舞台となっているのがここ、ハワース(Haworth)です。
果てしなく続く荒野、傍若無人に吹きすさぶ風、そこには今も「嵐が丘」の世界がそのままに広がる大地があります。
この排他的な雰囲気に妙に心惹かれていた私は、ずっと以前からこの地を訪れたいと願っていました。
そしてついに念願が叶い、一人この地にやって来たわけですが、そこには想像を超えたムーアの厳しさが待ち受けていたのでした。
ハワースへの道



今回はイングランド北部のリーズに滞在していましたので、まず鉄道でキースリーまで行き、そこからバスへ乗り換えてハワースへ向かいます。
あいにくのお天気に少々がっかりしつつも、早朝リーズを出発してキースリーの駅に到着したのが午前8時半ごろ。
そこから少し歩いてバスセンターへ移動しますが、雨が降り続くお天気のせいなのか、はたまた朝の時間帯のせいなのか、バスセンターには人影もまばら。
誰かにハワースへの行き方を訪ねようにも、誰もいないんですけど、、、といった感じでした。
とりあえずガイドブックを頼りに、ハワース方面へ向かうバスには無事乗車することができましたが、さて、どこで降りたら良いのでしょうか?(笑)
バスに揺られることおよそ30分。
なんとなく目的地ハワースに近づいているような風景では、ある。

でも、実際にどこで降りたらいいのか見当がつかないまま、そわそわしながら車窓に流れる景色を目で追います。
そうしている間にバスの乗客もどんどん減ってゆき、ついに最後の一人が降りてしまう、、、というタイミングで、さすがに焦ってドライバーさんに聞いてみました。
どうやら、最後の乗客が降りようとしているここで私も降りれば良いらしい。
まさに、ギリギリセーフでした。(笑)
このとき、一緒に降りた最後の乗客というのが、ハワースにある「ブロンテハウス」でアルバイトをしているという留学生の女の子。
私がバスの運転手さんに話しかけている様子を見て、バス停から町の中心部まで道案内をかって出てくれたんです!
ありがたや。
ムーアへの道は見つからず



このとき、まだ朝の9時ちょっと過ぎ。
お店やミュージアムはすべて10時オープンなので、どこも閉まっており、町中がシーンと静まり返っていて人もいませんでした。
朝早いことと、この日は雨が降ったりやんだり、1日中天気が悪いという予報も出ていたので、観光客も普段よりさらに少なかったのだと思います。
せっかく早い時間に到着しても、ムーアを歩くには地元の案内地図を入手しないことには始まらない。
インフォメーションがオープンするまでまだ1時間近くありましたから、ひとまずブラブラとお散歩してフォトタイム。


本当に何もない、誰もいない。(笑)
この状況の中、1時間もどうしたもんかと思いながら、教会までやって来ました。
ひっそりと佇む、という表現がぴったりのイギリスによくある古い教会でしたが、周辺をお散歩していたら、さきほど案内してくれた女の子がアルバイトしていると言っていた「ブロンテ姉妹のミュージアム」を発見。


ブロンテ姉妹とは、19世紀イギリスのヴィクトリア時代を代表する小説家三姉妹で、「嵐が丘」の作者は三姉妹の真ん中であるエミリーで、姉のシャーロットは「ジェーン・エア」の作者として有名です。
そしてこの近くに「ムーアこちら⇒」という矢印看板が。
インフォメーションがオープンするまでにはまだ時間があるし、案内板が出ているなら行けるかも!
時間ももったいないし、とりあえず案内板を頼りに進んでみることにしました。
矢印の方向に進んでいくと、そこはひたすら緑広がるのどかな風景。



ムーアはいったいどこ!?
降り続く雨にぬかるんだ足元を気にしながら、しばらく進んでみたものの、私のイメージする荒野はどこにもありません。(笑)
それでも、きっとこの先にムーアが出現するはず!
そう自分に言い聞かせながらさらにしばらく進みましたが、結局、その先にムーアへ繋がる道を見つけることはできず、車道にぶつかってしまいました。
そうなると、ひとまずは引き返すしかありません。



すでに足元はびしょ濡れ。
やっぱりインフォメーションで地図を手に入れたからじゃないと無理かな、、と考えながら来た道を戻ってきたときが9時40分ごろでした。
でもって、明らかに日本人の団体客。
すると何やら先ほどより人の数が増えてる!
数十名の日本人の団体は、自由行動のようではありましたが、ぞろぞろと一斉にある方向に進んでいきます。
もしや、ムーアへ向かっているのでは!?
団体ツアーでは、添乗員や現地ガイドが車中あるいは解散前にある程度の観光案内をしているはずなので、私は彼らを信じて後ろをついて行ってみることにしました。


すると、その先にいくつかの「Public Path」の看板に遭遇!
どうやらこのまま進んでいけば念願のムーアに出られそう。
私の前を歩いていた団体ツアーの日本人たちは、時間がかなり限られていたのでしょうか。
矢印の方向に進むことなく、少し散策しただけでほどなく引き返していきました。
これだからツアーは好きじゃない。
ひとりで思い切り自分の旅を楽しめる個人旅行って、やっぱり最高!
念願のムーアへの道が拓け、いよいよここからが私の本当の「過酷な」旅のスタートです。
めざすはTop Withins

ここに、どれだけの日本人観光客が訪れているのかを示す標識。
英語の横に不自然に添えられた「歩道」の文字は、イギリス人の親切心の表れであることには間違いがなく、それ自体は大変感謝すべきなのですが、旅人としてはなんとも残念な気持ちになりますね。(笑)
余談ですが、かつてドイツのロマンチック街道を初めて訪れたときにも、道路脇に「ロマンチック街道」と日本語で書かれた標識が立っていて、大変ショックを受けたことがありました。
観光地の詳細な解説や都心の複雑な乗り換え案内には日本語版があると嬉しいこともありますが、こうしたローカルな地元の標識にはできれば日本語は書かないでいただきたいな~なんて。
旅の風情が、、ね。
心折れそうになる自分との戦い
Public Path の標識を頼りに進んでいくわけですが、ご覧の通り表示が mile で書かれていることが多いため、km を使い慣れている私にはいまいち距離感覚がつかめません。
それでもとにかく、ひたすらに歩くのみ。
人っこひとりいない道のりを、ときどき現れる案内標識だけを頼りに歩き続けるのは、想像以上に孤独です。


始めこそ舗装された道路を進んでいくのですが、すぐに大自然のぬかるんだ道へといざなわれていきました。
雨はどんどん強くなるいっぽう。
実のところ歩き始めて10分くらいのところで、すでに心が折れそうになっていました。(笑)
でも、今回のメインイベントはこのハワースへ来ることだったので、とにかく、降りしきる雨の中を黙々と進むしかない!
折れそうになる心を支えていたのは「ここへ来るためにイギリスへ来たんだから!」という思いのみ。
はじめは心の中でつぶやいていたのが、次第に声に出して自分に言い聞かせるようになり、30分もたった頃にはあまりの過酷さに無言、無心、、。



人の気配も動物の気配も何もない草原には、ただ、激しく降り注ぐ雨音と自分の足音のみ。
所々に「ヒースクリフ」の花が咲いていました。
この時は少し時期がずれていたので見られませんでしたが、タイミングの良い季節には、このヒースクリフの薄紫の花でムーアが埋め尽くされるのだそうです。
「嵐が丘」の主人公、ヒースクリフの名前はそこから由来しています。


次第に霧も出てきて、雨もやむ気配なし。
誰もいない荒野にただひとり。
気がつけばもう、2時間近くもこんな場所を歩き続けていました。
もしかしたら私は間違った方向に進んでいるのでは?と不安になりながらも、随所で標識は出ていたので大丈夫なはず。
でも、どんどん進んでいくと明らかに錆びついて手入れされていない標識も。


大丈夫なのか?
あまりにも人がいない世界。
いまここで倒れたとしても、きっと誰にも気づかれることなく消息不明になって、そのまま土にかえるんだろうな、、なんてリアルに考えていました。
それでもまだ、この段階ではわずかに余裕をかましていた私がいて。
誰にも邪魔されず、誰にも迷惑をかけることなく、大自然の中で心置きなく大声で歌う!(笑)
これはね、ほ~んと最高でした。
ひたすら歌っていました。
天気が良ければもっと気持ち良かったのでしょうけれど。
勇気ある決断と迫られる選択

降り止まぬ雨、延々と続く荒野の足元は恐ろしく悪い。
この辺りまでくると次第に道らしき道はなくなり、ついには進むべき道を確認することができなくなってしまいました。
2時間以上をかけてここまで歩いて来たにもかかわらず、まさかの足止め。
諦めきれない想いと、ジワジワと芽生え始めていた不安とが交錯、さすがにここでしばし立ち止まって考えました。
考えるといっても、既にこの段階での選択肢はたったひとつしかありません。
当たり前ながら「道なき道」を行くことのリスクは測り知れません。
これ以上進むことは不可能と判断し、引き返すことを決断したのでした。
とはいうものの、名残惜しすぎてしばしその場から動けず。



時間にしたら10分くらいでしょうか、ただその場に立ち尽くし、雨音をBGMに360度に広がる大自然の景色をただただボーっと眺めていました。
そして、覚悟を決め来た道を引き返すことに。
簡単に「引き返す」と言っても、すでに2時間以上こんな荒野を歩いてきていますから、道のりは半端ない。(笑)
なんとなく重たい気持ちに苛まれつつ、ぬかるんだ足元を気にしながら来た道を戻っていたのですが、その道すがら、幸か不幸か「新しい展開」を迎えます。
ハワースの中心の町へ戻るにはさらに2時間かかることを考え、少し開けた場所まで戻った時に、唯一あったお手洗いに寄りました。
そしてそこで見つけたのが「別ルート」を示す標識。
「え⁉ こっちに行けばいいんじゃないの?」
目的地に辿り着けぬまま帰路についていた私の心に、再び火が灯ります。
そして次の瞬間にはもう、帰途ではなく、新たなその道を進み始めていました。(笑)
この選択が吉とでるか、凶と出るか。
新しいルートを歩き始めること15分、ついに動物に出会いました!


背中にマーキングされているので農家さんが放牧に連れてきた羊さんたちのようでしたが、それまで人間はおろか動物にも出会うことがなかったので、ちょっと感動。(笑)
そして、農家さんが放牧しているくらいなので、少なくとも観光地へ向かうルートとしては間違っていないのではないかという妙な安心感も。
とはいえ、羊たちは私の方を不思議そうな顔で見つめながら「なんでここに人がいるんだろう?」とでも言いたげな様子でした。


地図なき過酷な旅路

わたし、遭難するかも …
先ほどの道なき道を進むのか?というくらいのルートと比較すると、こちらは明らかに「道」がありましたから、それも私の心を安心させてくれました。
とはいえ降り止まぬ雨に、どんどん深くなっていく霧、傘を差して、ぬかるんだ足元を気にしながら進んでいくこの状況の過酷さは変わりません。
とにかくひたすらに歩き続けるしかなく、自分が今どこに居るのかなんて皆目見当もつかないし、いつ目的地に到着するのかもわかりません。
でも、道があれば大丈夫。
ご覧の通り、果てしなく続く道をトボトボとひとり孤独に歩き続けるわけですが、どこまで歩いても辿り着きそうにないのは何故でしょう?(笑)
道中かなりの写真を撮っていましたが、ずっとこんな感じで変わらぬ風景。
歩くことが好きなので、何時間も歩くこと自体は苦になりませんが、目的地が見えてこない旅路はさすがに堪えますね。
久しぶりに見つけた案内板は、ボロボロ。



この辺りの自然の過酷さを「嵐が丘」に重ねながら、とりあえず矢印の方向へ進んでいきます。
この荒野の中で、ポツリとたったひとりで存在している自分が、なんだかとても不思議な気分になりました。
でも、美しく詩的情緒あふれる感じではなくて、、、例えれば「無」ですかね。


視界に広がる景色は次第に変化していきます。
気がつけば自分の周りに生い茂る草の背丈もずいぶんと高くなって、かき分けて進むとまたパーッと荒野が広がっていたり、足元に突然小川が出現したり。
誰が何のために作ったのかわからないような小さな石垣もありました。



途中に「ブロンテの滝と橋」という案内板があったので、この小川に沿って歩いて行けば滝に辿り着くのかな?くらいの軽い気持ちでひとまずそちらへ向かって歩いてみることに。
でもその先には、ゆうに胸の高さを越えるくらいの草が生い茂り道を確認することはできず、そしてまた、引き返す。
こんなことの繰り返しです。(笑)
いったん分岐点まで戻り、今度は本来の目的地である「Top Withins」を目指すわけですが、最初からそうしていれば余分な労力使わないでいいものを。
なぜだか私はその時の勢いに任せて寄り道しがち。
先ほどよりは「道らしきもの」はありましたが、やはり激しい雨と霧の中で「ぬかるみ」との過酷な戦いが続きます。


ここまで来ると、さすがに疲労と不安が入り混じってイライラもピークに達していましたから、足元の悪さにいちいち腹を立て、独り言をぶつぶつ言いながら歩いていたのを思い出しました。
ぬかるみに足を取られるたびに「もう、いい加減にしてよっ!!!」(笑)
人どころか動物や虫にすら出会わないこのムーアで、よく頑張りました、ホント。
水溜まりはもはや、池。



誰ひとりとして私がここに来ていることを知らない状況の中、遭難しても絶対に発見されないだろうな。
最初に感じたそれよりも、この段階では遥かに現実味が増していました。
遭難するかも…
実のところ疲労と不安と苛立ちのトリプルパンチで、いつもの立ち眩みや、平衡感覚の異常が起こり始めていました。
このまま動けなくなったらどうしようという、けっこう現実的な不安が押し寄せていて、いよいよ本当に決断の時が迫っていました。
ここまで、ひたすらに深い森や荒野を歩いてきましたが、どれだけ歩いても目的地に辿り着く気配のないこの状況。

前方に広がる深い霧。
この辺りは「道」もハッキリとはわからなくなっていましたから、さすがに道なき道を進む状況でないことは理解していました。
ついに決断の時です。
過酷な旅路の果てに
今度は本当の本当に諦めてハワースの町へ戻るしか選択肢なし。
あさ9時半ごろにハワースの町を出発してから、このときすでに5時間ほどが過ぎ14時を回っていました。
ハワースへの折り返しには少なくとも3時間ほどかかると思われ、その時間を考えるとこの辺りが限界です。
そしてまた、しばし立ち止まり周りをゆっくりと見渡しました。
大自然のなかにただ一人ポツリと佇むこの風景を思いっきり目に焼き付け、心にたっぷりと沁み込ませ、過酷な道のりを経て確かにここへ来たのだという思い出をたくさん写真に収め、、、



傘を差しながら、こんな靴を履いて5時間も荒野を歩く私って、ヤバいな。
因みにこのとき履いていた靴は、恐らくぬかるみの中にたくさん存在していた細菌さんたちに侵され、どれだけ洗っても洗っても「腐った臭い」が取れず、廃棄処分となりました。(笑)
ここから先は、ただひたすらに来た道を戻るだけなのですが、それでも3時間はかかります。
見えない目的地に向かって先に進む不安は解消されましたが、すでに5時間もぬかるみや砂利道を歩き続けていたため、足の痛みもピーク。
不安の解消とは反比例して、イライラはどんどん高まっていくばかり。
とにかくすべてにイライラして、石ころひとつにも当たり散らかす始末でした。(笑)
数時間前には、ご機嫌に大声で歌をうたって歩いていた自分が、もはや思い出せそうもありません …。



とりあえずは久しぶりに羊さんたちにも再会を果たし、来た道を順調に戻ってきていたかのように思えましたが、人間の記憶とはなんとも曖昧なもので、反対側から来ると途端にわからなくなるんですよね。
分かれ道に出会う度に似たような道ばかりで大混乱。
「どっちだっけ?」と悩みながら進むこと1時間半、なんとなく見覚えのない景色が続いていることに気付いたのです。
どうやら来た道から外れてしまったようです。
が、もうここはとにかく帰巣本能を信じて進むしかありません。
大きく方向さえ間違わなければ、あの荒野に戻ることはないはずです。
おおよそ通って来たであろう方角の目星をつけながら、恐る恐る進んで行ったところ、いつしかぽつり、ぽつりと人影が見られるようになり、まったく見覚えのないルートからではありましたが、なんとかハワースの町へと生還することができました。
ハワースへ辿り着いたときには力尽き、そのままハワースの駅へ直行。



夏の期間だけ運行されているSL機関車を利用してキースリーの町へ向かいましたが、もちろん、キースリーの町を観光するほどの体力も気力も残されておらず、そのまま電車を乗り継ぎ、宿泊地であるリーズまで戻って来ました。
旅の終わりに
5時間も荒野を歩いたにもかかわらず目的地に辿り着けず、さらには帰路まで迷いに迷ったこのハワースの旅。
あの時には「何だったんだろう、この過酷な体験は …」と肩を落としましたが、時間が過ぎて感じるのは、なるほど、私の人生そのものだったよね、ということ。
なにごとも周到な準備をして臨む割には、ちょっとの手間をめんどくさがって失敗したり、目的地(やりたいこと)は明確なのに、その場しのぎの判断で諦めることになったり。
ハワースに早く到着して information が開いていなかったために、その1時間を待つことができずに地図を持たないまま見切り発車。
進む道が見つからず引き返すことを決めたにも拘らず、途中で違う道を見つけてそっちにまた見切り発車。
挙句の果てに目的地に辿り着けず、時間と体力と気力を奪われ終了。
誰のせいでもなく、すべては自業自得。(笑)
でもその経験自体は決して後悔するものではなくて、むしろ、レアな思い出として大切に心の中に息づいています。
このハワースでの出来事を思い返してみて、私の人生もそんな感じだな~と改めて感じています。
みなさま、ちゃんと地図を確認しながら進めば「嵐が丘」は遭難などとは無縁な安全な観光地です。
ぜひ、興味のある方は訪れてみてはいかがでしょうか。
私も近いうちにまた、リベンジしたいと密かに思っています!