【雪組公演】ボー・ブランメル~美しすぎた男~│ Beau Brummell イギリス・ダンディズムの祖

以前、雪組公演『ボー・ブランメル~美しすぎた男~』について、作品と史実との違いを簡単に検証しましたが、今回は、実在した主人公 Beau Brummell の人生を詳しくご紹介します。

彼は19世紀初頭のロンドン社交界において“完璧な紳士”としてその名を馳せました。

爵位も地位も持たなかった彼が、貴族たち以上の影響力を持てたのは、唯一無二の美意識と徹底した自己演出力があったからです。

そして、その生き様は“ダンディズム”という言葉の原型をつくり、後世の文化・芸術・ファッションに多大な影響を与え続けています。

Beau Brummellの人物像とその時代背景、彼の生き方が今もなぜ語り継がれているのかを、歴史的エピソードと共に詳しく解説します。

Beau Brummellとは?

Beau Brummell(本名:George Bryan Brummell)は、1778年ロンドン・チェルシーで生まれました。

父親は王太子の個人秘書という要職に就いており、裕福な家庭で育ちました。

幼少期から礼儀作法や教育を受け、上流階級の一員として自然に育成されます。

後年、「Beau(=美しい、洒落者)」というあだ名で呼ばれるようになり、イギリス社交界で一躍有名に。

彼は貴族でも政治家でもなく、職業らしい職業も持たず、ただ “完璧な服装とマナー” のみで王侯貴族に影響を与えました。

成り上がりの少年時代と王太子との接点

少年時代、ブランメルは名門・イートン校に進学。

すでにそこで、おしゃれな身なりと紳士的な立ち居振る舞いで人々の注目を集めます。

その後、彼はオックスフォード大学に進学しますが、真面目に学問を修めるというよりも、社交とウィット(機知)に長けた振る舞いで上流階級のネットワークを築いていきました。

16歳のとき、騎兵隊(第10軽騎兵連隊)に入隊。

ここで当時の王太子(のちのジョージ4世)と親交を深めたことが、彼の人生を一変させます。

王太子の寵愛を受けたブランメルは、王族に匹敵する影響力を社交界で発揮し始めました。

ダンディズムの体現者

当時のイギリスでは、男性ファッションはまだ派手な色彩やレース、装飾が主流でした。

しかしブランメルはそこに異議を唱え、「上質な素材と完璧な仕立てによるシンプルな服こそが真のエレガンス」という美意識を打ち出しました。

彼は毎朝5時間かけて着替えをし、ネクタイ(当時は“クレバット”)の結び方に納得がいかなければ何十回もやり直したといいます。

白いシャツ、濃紺や黒のジャケット、磨かれたブーツ、完璧に折り目のついたズボン、それが “本物の紳士” の証とされました。

「洗練された外見は、内面の品格の現れである」とする考えは、のちに “ダンディズム” という言葉となり、19世紀を代表する美学のひとつとなっていきます。

交友関係と文化的影響

ブランメルは王太子をはじめ、多くの文化人、貴族、軍人たちと親交を持っていました。

作家バイロンは彼を「生きる芸術品」と称し、後年にはオスカー・ワイルドボードレールといった文学者たちにも影響を与えます。

“Beau Brummell” という名前は、のちの芸術運動(アール・デコ、アール・ヌーヴォー)におけるスタイル美学の出発点ともなりました。

ブランメルにまつわる逸話

王太子ジョージとの親密な交友関係は、彼の人気と地位を確固たるものにし、服装や立ち居振る舞いまでもが、当時の社交界の基準とされていました。

「ブランメルが良しとしなければ、貴族であっても社交界に居場所はない」とまで言われるほど、絶大な影響力を誇っていたのです。

しかし、その栄光の日々は長くは続きませんでした。転機となったのは、長年の庇護者であった王太子との関係悪化です。

ブランメルには数々の逸話が残されていますが、その中でも最も有名なのが、王太子を侮辱したとされる一言です。

ある夜会で、王太子がブランメルを無視したことに腹を立てた彼は、周囲の者に聞こえるように「Who's your fat friend?(あの太った男は誰だ?)」と毒づきました。

この一言が王太子の逆鱗に触れ、これにより王太子との関係は決裂。

それ以降、王室からの支援はもちろん、貴族や社交界全体からの見えざる “追放” が始まりました。

彼の影響力は失われ、誰も彼の振る舞いを真似しなくなり、もはや新たな流行をつくる存在ではなくなってしまったのです。

彼の転落が始まります。

美意識へのこだわりとウィットある発言は彼の魅力でもあり、同時に破滅の引き金にもなったのです。

晩年の没落と孤独

ブランメルには安定した収入がありませんでした。

父親の遺産を頼りに、贅沢な生活を維持していましたが、仕立て代や馬車の維持費、夜会の出費などがかさみ、やがて借金は雪だるま式に膨れ上がります。

かつては「無駄こそが洗練」と言わんばかりに豪奢な生活を誇っていた彼も、支出の重みに押しつぶされていきました。

そして1816年、ついに債権者の追及から逃れるため、ブランメルは夜逃げするかのように密かにロンドンを離れ、ドーヴァー海峡を渡ってフランスのカレーへと向かいます。

周囲は「一時的な国外滞在」と見ていましたが、これがロンドンとの決別となりました。

フランスでは、はじめこそ “かつての英国紳士” として一部の人々からもてなされていましたが、その関心も長くは続きませんでした。

彼はカレーからカーンへと移住み、生活は次第に困窮していきます。

残されたのは、ほんのわずかな旧友からの仕送りだけ。

中でも、ロード・アルヴァンリーだけは最後まで彼を支え続けました。

カーンでの生活は、静かで孤独でした。

もはや誰も彼を話題にする者はおらず、ブランメルは、まるで時代に取り残された亡霊のように日々を送ていました。

かつて一日かけてネクタイを結んだ彼が、次第に身だしなみにも無頓着になっていった姿は、見る者に寂しさと同時に不思議な敬意を抱かせたといいます。

晩年には、精神状態も悪化し始めます。

梅毒の後遺症ともされる症状により、記憶や思考に混乱をきたし、幻覚を見ることもあったようです。

1830年代後半には精神病院に入院し、完全に社会との接点を断たれてしまいました。

そして1840年3月30日。

Beau Brummellは、誰にも看取られることなく、カーンの病院でひっそりと息を引き取りました。

享年61歳。

彼の死はロンドンでもほとんど話題にされることなく、その時代は静かに幕を閉じたのです。

ブランメルは何故、今も語り継がれるのか?

彼の人生は、成功と没落の両方を象徴しているように思えますが、これは本当に “没落” と呼ぶべきなのでしょうか。

たしかに、名誉も地位も財産も失った人生でした。

けれども彼は、生涯を通じて「自分の美学を曲げることなく」生きました。

自分のスタイルを守り続けたのです。

Beau Brummellの没落は、決して敗北ではなかったように思います。

「職業を持たずして王族すら動かした男」という前例のない存在は、今日でも「スタイルとは何か?」を問う上で無視できない存在です。

現代のファッション・グルーミング・ジェントルマン文化の礎を築いた彼の哲学は、たとえば、ユニクロのようなミニマリズムから、サヴィル・ロウのテーラリング文化にまで、幅広く影響を及ぼしていると言えるのではないでしょうか。

Beau Brummell が現代に語りかけること

Beau Brummellの物語は、単なるおしゃれな男の逸話ではありません。

それは、「自己表現と美意識をどこまで徹底できるか」という問いでもあります。

ブランメルは「男は服で飾るのではなく、服を通して自分の中身を磨くべきだ」と語っています。

現代の私たちにとっても、「見た目を整える」という行為は、単なる外見の問題ではなく、自己を大切にし、他者を尊重するための第一歩 なのかもしれませんね。

まとめ

今回は雪組公演『ボー・ブランメル~美しすぎた男~』の上演に先駆けて、主人公である Beau Brummell の人生を辿りました。

彼の人生には不思議なくらい色恋沙汰が出てきません。

宝塚版のあらすじを読むと、「女優メアリー」が恋人として登場しているので、実際の彼の人生に登場しなかったストーリーが加えられるのでしょう。

公演が始まるまで少し時間がありますので、今後も少しずつ Beau Brummell の交友関係などにも触れてみようと思っています。

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